映像を見る
何かを思う・感じる
行動を起こす
人は映像を見るとき、視覚・聴覚を奪われます。人間の五感の内、最も大事であろうニつが奪われるということは動物社会でいえば致命的になる。
一方、人には天敵がいないので悠々自適にテレビや動画などをアホ面で見ることができるというわけだ。
さて、映像である・・。
この近代社会の発明品が知られるようになったのは19世紀末。エジソンが開発したキネストスコープ(パラパラ漫画装置)を発端にリュミエール兄弟による映画の元祖シネマトグラフが作られた。
そこから約120年。音声も付け加えられ、彩色表現も可能になり現代のテレビスタイルに登りつめていくことになる。
今ではテレビ・ネット・スマホの普及により映像を見ない日はないともいえる社会になっている。
「単なる映像」になってしまっている昨今。映像の持つ特性・怖さというのを考えている人達はどのくらいいるだろう。
私がこの記事を書くに至った経緯は最近の「CM」にある。広告といっていい。
もはや巷に溢れている映像の80%くらいは広告だと思います。品を売るために作られる映像には「見せる技術」がある。
それは映像表現の進化というべきか、はたまた退化と捉えるべきか。この広告映像の分析に入りたいと思います。
広告映像メディアの実態
広告映像といえばTV・ネット動画・ゲーム・紙媒体からのAR・街頭デジタルサイネージ・街頭ビジョンなど、ディスプレイやスクリーンが整った環境で始めて表現することが可能である。
ディスプレイ=画面。みなさん多くの方がお持ちのスマホなどは持ち歩く広告媒体といっていい。
それと、一旦中止にはなったが、電車の中吊り広告映像化。教育面ではパソコン・タブレット・テレビ・DVDなどの映像教材は多い。
この状況だと学校の黒板がディスプレイに変わる日も近いだろう。
このように屋外・家庭・個人単位で完全に映像包囲網に囚われているのが現状である。
しかし、これだけ多くの映像広告が世に垂れ流されている理由はなんだろうか。もちろんスポンサーによる商品宣伝は分かる。
そのおかげで民法やYoutubeなどは無料で視聴できるから非常にありがたい。
だが、ほとんどの人達が映像を見る(見たい)とき、広告というものは目的ではない。「見たいわけではないのだ」
つまり「意図しないもの」が広告であって、その性質は当然作り手もよく分かっている。それを逆手に取ることこそが「広告作り」なのである。
実は映像よりも音が大事! BGMだけのCMが多い理由
有名なところでいえば「ユニクロ」「アップル」「google」など、特に大手企業ほどBGMだけのCMが多いように思われる。
この意図するところといえば何であろう。CMといえば自社の商品を最大限活用して売る(告知)ことが目的だ。
多くのCM手法としてはナレーションを入れて「この商品はここがすごい!」のような言わば「売り文句」はかかせない。
しかしBGMだけの場合、売り文句が省かれていてかえって不利な手法ではないのか?
答えはノーだ。
そのCM単体だけを流す場合は「何のこっちゃか分からない」しかし、CMとは他社のCMとセットになって流される場合がほとんど。
他がナレーション・SE満載で溢れている中、途中でBGMだけになると人の耳は違和感に襲われる。そう、聞き込んでしまうというわけである。見入ってしまうというか「聞き入ってしまう」。
例えばテレビを流しながら雑誌を読んでいるとする。ゴチャゴチャ流れている番組やCMの間に急に落ち着いたBGMだけ流れだす・・
私はふと違った空気に違和感を覚え、雑誌から目を離してしまった。
映像を作っている方なら「音」の重要性はご存知かと思います。特にCMは10秒~15秒という短い制約。そんな中ではカット数を多くして1カット1秒以下になることが多い。
ツギハギだらけの構成を簡単に一まとめにしてくれるのが「音」というわけだ。
しかもBGMだけというのは「多くの情報を与えない」いわば「イメージの具現化」。
「キューピーマヨネーズ」や「ポカリスエット」のCMは群を抜いてこの「イメージの具現化」に成功しているように思われる。
こちらは抽象的なナレーションが最低限入っているのだが、カテゴリーとしてはBGMCMと変わらない。
商品を売るつもりでCMを打たないのは余裕の現われである。大手にイメージCMが多いのはこういった磐石なブランドイメージをさらに加速させ、見る者に他社とは違うオーラを感じさせてくれる。
いつ教えてくれるんだよ!最後までタネを明かさないCM
BSの通販番組に多い。あるいはドラマ仕立てで続きをかもし出すCMがそれだ。番組連動で「答えはCMの後!」というのもよく使われる手法ではある。
これらは人の心理を巧みに使い、コッチは元々知りたくもない情報を「知りたい!」に強制変換させる。
ただテレビをながら見していて、元々がどうでもいい情報なのに「隠される」とどうしても見たくなる衝動が人の感情にはあると思います。
特に通販番組などは商品の値段を中々明かさない。長いときは5分見続けても値段を明かさないのだ。
こっちは欲しくはないんだけど、値段だけを知りたくなってくる。「9,800円でしょ?」「いや12,800だって」と家族で予想する始末。
そして値段を知るやいなやチャンネルを変える。決して買わないのだが、商品を知らしめるという目的に関しては十分成功している。
ネット検索で表示されるタイトルにも同じことがいえる。サイト運営者なら当然周知しているSEO対策がこれである。
「1ヶ月で20kg減った!私が試した○○式ダイエットを今すぐ始めなければ損をする理由10」のようなよく目にするアレである。
目に飛び込んだ瞬間、知りたくもないのだが、どういうものか気になってしまいクリックしてしまう。
大ヒット海外ドラマ「24」「LOST」なども似たような性質を持つ。問題と答えを執拗に交互に出し続ける。
もしくは答えを最後まで明かさない、といった手法で見る者を虜にさせる魔力がある。それをあたかも「おもしろい」と勘違いしてしまうのも人の性。
私は2つともシーズンラストまで見たが、結果何一つ心に残るシーンなどはない。あるのは空虚感のみ。しかし制作側は「見てくれれば大成功」なわけである。
マジか!? 勘弁してくれ! 恐怖心を煽る番組とCM
ここ何年かで急速に増え始めた「医療・病気モノ番組・CM」。有名どころでは「たけしの家庭の医学」貞子のテーマでおなじみの「きっと来る~♪」特に医療モノは不安を煽るには持ってこいのジャンルだ。
自分の生死に関る情報と受け止める視聴者が多く、極論「見なければ死ぬ」とまで警告・脅迫してくる。実にやっかいなジャンルである。私個人ではかなり悪質性を持った番組・CMだと感じている。
医療系コメンテーター・識者は文化人枠で有名タレントのギャラより安くあがり、且つ視聴率は高い傾向にある模様。こんなおいしいジャンルは無く、民法こぞって医療モノに手をつけているのが現状だ。NHKの「ためしてガッテン」なども似たようなものである。
「ほっておくと大変なことになりますよ・・」コレ脅迫じゃないかな~と思ったりするほど危ういキャッチコピーである。だったら見ないわけにはいかないじゃないですか~。誰しもが健康には気を使っている。老いたくはない。病気をしたくない。死にたくない。その弱みに付け込んでくるスタイルは形が変わった霊感商法と何が違うのか。
CMもだ。特に禁煙外来や逆流性食道炎・過活動膀胱・肺炎球菌ワクチン、どれもこれも危機感を煽る製薬会社の販促である。健康に直結する煽りは悪いことではないが、あの手この手で人の心理に突け入り不安を煽るのはいかがなものか。
特に禁煙外来のCMで「子供を使う」のがある。少し前では「寿命が縮む」である。タバコを止めるのはよろしい。だが、禁煙外来に行って「薬」を買う必要性はない。正確に言えば「禁煙してくれ」「だけ」でいいわけだ。
しかし「薬」を買ってもらわないといけない理由が製薬会社にはあり、ここにズレが生じてくる。子供が喫煙者である親へ禁煙してほしいと作文を読む。
もし自分の子供に言われたら・・と思ってしまいますよね。というか・・こんな授業あります? 設定は明らかに学校内の教室。課外授業にしても授業参観日に喫煙者の親が恥をさらしている現状。
学校の先生はどういうつもりだろう。こんな授業は存在しないし、教育現場にビジネスを持ち込んではいけない。しかし、そこまでして売りたいモノがあるのだろう。こうしたプチ脅迫番組・CMは私は大嫌いである。
お願いします!消えてください! 強制的なネットCM
これはネット動画に多いのではなかろうか。YouTube、ニコニコ動画などは本編が始まる前に必ずといっていいほど広告が強制的に流れる、または表示され、一定の時間が経たないと消すことができない仕様となっている。
その時間でいえばわずか5秒ほどだが、やきもきしている視聴者は多いのではなかろうか。
ニコニコにいたっては通信速度を遅くして、より早く快適に見られるプレミアム会員に加入させることを促している。
最近話題になったYouTubeの有料化問題も似たような性質だろう。有料登録者には広告を省く機能が付き、より快適にネット動画ライフを楽しめることができるらしい。
「広告を見るかor金を払うか」・・運営サイドからしたらどちらもオイシイ仕様になっているのが現状。これは動画ビジネスの基本であり、無料で見られるだけでもありがたいと思うべきか。
こうした「強制的CM」はテレビCMにも同じことが言えるのだが、ネット動画の方がはるかに広告を見せる時間は多いように思われる。
理由はディスプレイのレイアウトだ。デフォルトでは画面は小さくなっており、周りには他の動画やクロールで文字広告が流れている。一見、動画に目を奪われがちで気づきにくいのだが、何かしら情報を多く見せられるレイアウトになっているというわけである。
しかもそのほうがユーザーにとっては利便性が良く、まんまと情報のシャワーを浴びせられていることに気づく人は少ないだろう。
テレビ離れが絶えない昨今、スマホ・ネット動画での視聴は年々増えている。テレビと違ったコンテンツの配信、コミュニティ、選択の自由が挙げられるからだろう。
テレビ世代の40代~60代が去っていく今後は益々テレビという娯楽メディアは廃っていく。当然、スポンサーである企業もネットにシフトしていき、限られた予算で視聴者を楽しませる番組作りは今よりも難しくなっていく。
広告とコンテンツは相思相愛でなくてはならない。たとえ強制的であっても有益なコンテンツの前では誰もがひれ伏すしかないのである。
最後に「サブリミナルとマインドコントロール」
サブリミナル効果という言葉をご存知でしょうか。人の深層心理に映像や音声で働きかけ、行動を起こさせるという黒魔術さながらの広告手法である。
1957年、映画の上映中に「コーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」といったテロップを5分毎に二重映写したところ、商品の売り上げが20%から50%上がったという報告が記録されている。
真意の程は定かではないが、このとき客は無意識に購入したことを伝えている。
他にもゲームや番組内で宣伝効果を狙い、人が感知するかしないかのギリギリのコマに「謳い文句」をインサートするといった実験的手法が取られていたことがある。
これらは放送協会で「人を欺く手法」として敬遠され、国内では1995年にサブリミナル的表現は禁止となる。しかし、こういったサブリミナルは形を変えて現在にはびこっていると私は感じる。
延々と同じ広告を見せられ、頭から離れられないメロディーを多く使い、フラッシュ映像を多様し「目や耳を束縛する映像」はサブリミナルとどう違うのか。
情報乱立の世の中、広告を目立たせるにはより過激なものへとシフトしている気がしてならない。
「過激」というのは一見普通の映像のように見えて普通ではない。私から言わせれば1フレームに「コーラを飲め」という手法なんかはカワイイものである。
一つこれを読んでいる方に試してもらいたい実験がある・・。それは
「映像に映る人の目を見ない」で「映像を見ることができるのか?」
という実験である。このブログのポリシーで外部映像リンクは貼っていません。テレビでもネット動画でもイラストでもいいです。
人の目を見ないでその「全体像を把握する」ことはかなり難しいと思われる。人が映れば、真っ先に目線が行くのは「必ず人の目」である。
そこからがスタートになり、そこに魅力を感じた人間は容易に情報操作されていく。
無論これに限ったことではなく、あらゆる心理的映像手法は常に編み出されていく。
広告とはプロパガンダとも捉えることができ、政治的理念・陰謀・犯罪。ありとあらゆる手を使いながら社会を変転させることも可能かもしれない。
映像が発明されて約120年。写真が動くことなど「ありえない」社会から「あたりまえ」な社会になった。
その「あたりまえ」な映像を鵜呑みにする人々は実は昔よりも増えてきていると感じる。
ドラマ・バラエティ・ドキュメンタリー・ニュース・配信動画。そのほとんどは視聴者が実際に「見ていない」映像であることを知ってもらいたい。
もしマスコミ関係の方がこの記事を読んでいるなら当然知っているだろう。娯楽の裏は影である。
何も知らないということはある意味幸せではあるが、仮にも映像制作の場末である自分としては「映像に踊らされ続ける」ことには辟易している次第であります。
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